静かなるフェミニストであるということ



 十五夜に投稿する、記念すべき最初の投稿は、ブログのタイトルにした"Introverted Feminist" 「内向的フェミニスト」について書こうと思う。(なんせ、初投稿だから、色々多めに見てほしい。一応言っておくと、私は褒められて伸びるタイプ代表だ。)

     私は自他ともに認める内向的な性格だ。人が嫌いというわけではないが、人疲れが多い。人間より動物といる方を好むタイプだ。

大人数の集まりでは、人の話を「うん、うん」と聞きながらひたすら食べる。食べ物がなければニコニコしながら飲み物を飲み続け、空になったグラスを手にどうしようかと内心ドキドキしていることが多い。
優しい誰かが「あなたはどう?」と話を振ってくれると、二言で終わってしまうか、勢いよく話し出して途中で疑心暗鬼に駆られ、尻すぼみな発言をする。そして、一晩中自分の発言について自己批判をし続けるのが常だ。

「自意識過剰な発言ではなかったか」「誰かを傷つける言い方ではなかったか」
「意図は正しく伝わっただろうか」「あの人の反応が薄かった気がする」

    心を許せる友だちは少ないながらに居て、その輪の中では普段ティッシュのように丸められている心や意見が、大空の下に干されるシーツのようにパッと開かれて気分が爽快だ。

    それでも、無意識に避けてしまう話題がないわけではない。

その一つがフェミニズムだ。
現代の日本では(多分世界でも)まだ異物扱いや、男嫌いとして扱われることが多いフェミニスト。2014年にエマ・ワトソンが国連のHe for Sheのローンチに当たって男女不平等がいかに男性へも影響するか演説したのは有名だが、そのメッセージは日本ではいまだ広く認識されていないように思う。

"Men, I would like to take this opportunity to extend your formal invitation.
Gender equality is your issue, too. Because to date, I’ve seen my father’s role as a parent being valued less by society, despite my need of his presence as a child, as much as my mother’s."   - Emma Watson    September 21, 2014


  女らしさや男らしさの押し付けは男女関係なく、私たちの存在そのものへの重圧であり、拘束であり、終わることのない社会からの鋭い攻撃のように思う。

    私のフェミニズムへの思いは熱く、大切なもの。決して失われない根幹の部分。
でも、私はそれを拡声器に通して大きな声で叫ぶエネルギーや、前に出て大きな変化を生み出すような性格を持ち合わせてはいない。知識だって完ぺきではない。

長い間、私はこの事実を前に、フェミニスト失格であるような感覚を捨てられなかった。そう名乗る資格がないように感じていた。
周りから孤立することも怖かった。当時、私の目に魅力的に見えていた男の子たちが離れていくことも怖かった。

    今は胸を張って言える。私は立派なフェミニストで、女性で、男性が大好きだ。(笑)

民主主義者が全員、政治家になって世の中を変えるわけではない。マーチや演説をするわけではない。政治について、なんでも知っているわけではない。
アニメオタクが全員、所かまわずアニメを熱弁するわけではない。

私たちはみんな、自分の情熱について語る場所を、意見について共有する場所を選ぶ権利がある。安全だと感じられる場所が増えればいいと思う。

    社会はムーブメントを起こすような行動的な人ばかりで形作られているわけではない。
むしろ、私のような平凡で小さな存在の集合体だ。
私が今日、このブログを書いたこと、書いても大丈夫だと思えたこと、これは小さな勝利で、祝福されるべきなのだ。
今日、あなたが誰かにかけた一言や、小さな行動は波紋のように広がっていく。

世間に散らばる小さな差別に気づき始めてしまった私たちには、日々傷つくことも多い。
社会が変わる日なんて来ないのかもしれないと思うことも多い。


それでも、もし読んでくれている人がいたら。

静かなるフェミニストたちよ。

どうかその熱を抱き続けていてほしい。

安全な場所を見つけたら、胸を張って内向的フェミニスト宣言をしてほしい。

(私一人では、心細くて仕方ないから。)


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